幕末の幕府軍の兵器・兵装・戦術を語るスレ2

1日本@名無史さん2010-11-26 22:14:58

幕末の幕府軍の兵器・兵装・戦術を語るスレ

明治に創設された日本陸・海軍の活躍でいまやすっかり忘れ去られている幕府軍。

フランス流に調練された陸軍や、蒸気船を揃えた海軍や、軍事アカデミーともいえる講武所や兵書の翻訳機関など、

割と優れていた設備を整えていた幕府軍を語るスレがあってもよいのではないだろうか?

ズボン式軍服を採用する上で、刀剣の外装から金具を外すという、脱伝統の努力も垣間見られなど、

もっと評価すべき軍隊だと思う。

41日本@名無史さん2011-02-24 23:25:55

>>34

大村益次郎が購入した銃器の価格

銃種 挺数 洋銀 洋銀/挺 両/挺 1両

長ミニエー 160 3,360 21 13.125

短ミニエー 60 1,440 24 15.000

ミニエー弾         50発

カラベイン 49 2,450 50 31.250

大型拳銃     33 20.625

小型拳銃     25 15.625

マツノ書店刊行の資料でよければ

60日本@名無史さん2011-10-10 09:00:03

同時期の南北戦争でも密集して一斉射撃をやってるのに

日本の幕末の散兵戦術はどっからきたの?

最初の例は第二次長州征伐の長州兵?

74日本@名無史さん2012-03-22 17:56:42

長州征伐は本格化する前に慶喜が身を引いた。

全面戦争に発展すれば長州も滅んだが日本も滅び徳川家も後世に悪名を残しただろう

現代ではドキュン長州よりも勝ちを譲った慶喜が評価されている

114日本@名無史さん2014-09-06 15:36:27

>>74

どっちみち東北はろくな目に遭わんのだよ。

久保田藩を見よ。

101日本@名無史さん2013-09-29 15:56:41

だいたい徳川将軍本家を継げる正等な資格は

紀伊徳川家か尾張徳川家しか与えられて無かったんだよね

徳川将軍家本家を御三家の中で正等に継げたのは

紀伊徳川家の8代将軍徳川吉宗と14代将軍徳川家茂だけ

水戸徳川藩の水戸系徳川は副将軍なんて名目上の名だけ

与えられてただけなのに幕末のどさくさに紛れて

将軍本家を水戸の慶喜が勝手に乗っとった形だからね

105日本@名無史さん2014-04-03 13:38:17

>>101

本家を継げる資格って、それ俗説やん

112日本@名無史さん2014-09-06 14:22:58

優秀な指揮官とかいたっけ?

官軍で活躍した指揮官は、そのまま日清日露と活躍してるから、目立たないな。

116日本@名無史さん2014-09-09 09:24:22

>>112

旧幕府側でも、雷神隊の立見尚文なんかは戦後も活躍してるな

>>114

実は秋田藩の賞典禄2万石は佐賀藩(言わずと知れた)や岡山藩(鳥羽伏見前からの勤皇派)や

彦根藩(鳥羽伏見で真っ先に新政府側についた)とかと同格

それよりも、戊辰では思いっきり日和ったのに箱館で本気だしてちゃっかり1万石貰ってる弘前藩の要領のよさに脱帽する

117日本@名無史さん2014-09-09 18:53:34

>>116

秋田は詫び賃では?

123日本@名無史さん2014-09-15 12:37:14

旧幕府歩兵隊の装備は薩長と同等かそれ以上でしょ(少なくともミニエー、もしかしたらスナイドル)

列藩同盟側でも最終的な軍制改革行った年は長岡藩が慶応元年で早く、庄内藩と米沢藩が慶応3年ぐらいでギリギリセーフ

始動が遅すぎたのは仙台・会津で、会津藩は何とか格好だけ付けて部隊ぶっこんだけど、仙台藩は完全に遅刻で額兵隊の訓練中に終戦

発注した銃を新潟港で官軍に押収されてたり色々アカン

官軍側だけど、秋田久保田藩も多分間に合ってない。椿台の戦いの頃に新式銃がやっと届いて善戦できたらしい

あと紀州藩なんかも遅れてたが、支藩の紀伊新宮藩だけは早々に西洋化してたっぽい

第2次長州征伐で、同じ紀州藩軍なのに石州口と芸州口で戦いぶりに雲泥の差があるのは多分そのせい

124日本@名無史さん2014-09-15 12:41:53

>>123

芸州は正面からガチの勝負だったから、数の利が生きた、

石州は陣地にこもって様子見してたら奇襲食らってぐちゃぐちゃにされて

訳が分からなくなった、ってのもあるけどね。

125日本@名無史さん2014-09-15 13:25:37

>>124

というか、石州口は先鋒が機能せずにいきなり後方部隊が襲われているし。

132日本@名無史さん2014-09-16 12:24:15

そもそも 慶喜に指揮権があったかのか?

扱い的に人質モードなんやが ケイキ様

135日本@名無史さん2014-09-18 16:47:03

いやいや、幕府歩兵隊はどこでも前線で頑張って戦ってたし

伏見奉行所から撤退した直後は、指揮する奴が逃げたんで反撃や防御をするでもなく中洲で一晩過ごしたりしたけど

会津も千本松辺りの土手道の葦原に槍兵を伏せて長州藩の中隊長を討ち取る金星挙げたし

伏兵してるってバレた後は対応されて大損害出したけど

桑名も会津とぶっこみで無理矢理近接戦闘に持ち込んで富ノ森では官軍を後退させたし

予備兵力出して貰えなくて録に追撃もできずに引き返したけど

他の連中は何してたのか知らん

138日本@名無史さん2014-09-19 08:04:24

>>135

それを指揮官がクズで戦争ができない状態というんだが。

前線が頑張ってるのに、指示が来ない、援軍が来ない。

148日本@名無史さん2015-04-19 18:04:12

彰義隊って、どうして浜離宮かお台場に篭城しなかったの?

榎本の艦隊と共同したら上野のような無様な負け方をしなかっただろうに。

150日本@名無史さん2015-04-20 08:22:47

>>148

手代木勝任

「だって、囮の為の捨て駒ですもの」

152日本@名無史さん2015-04-21 08:13:31

あと榎本武揚は強硬派だったが徳川家の家名・封土の確保が第一目標で、

脱走を開始したのも慶喜が静岡に送られてから。奥羽や彰義隊には同情的だったようだが

だから彰義隊が品川に移動したら勝海舟とも接点がある彼の立場はかなり難しくなったはず

艦隊幹部が榎本派と即時抗戦派に分かれるリスクもあった

154日本@名無史さん2015-04-23 02:48:25

衝鋒隊で斬首はあった。隊規違反の掠奪や脅迫を犯すと、兵は士分ではないから斬首。

規違反での斬首は別に珍しいことじゃない。奇兵隊の半分は武家身分だけど、まず泥棒するでしょ。

すると掠奪に夢中になってすぐに帰ってこない。司令も連座するから探して連れ戻す。すると隊規違反+逃亡で、士分でも斬首。

縁者の嘆願があると切腹にしてもらえる。

幕府歩兵は農兵どころか博徒・無宿の人間が多かったから、まず斬首だっただろう。

忠義な農兵・博徒・武士はもちろんいたよ。小栗家の領地から集めた小栗歩兵なんてその典型。

155日本@名無史さん2015-04-24 11:28:59

新撰組って言われるほど厳しいわけじゃないしね。

幕末の結社では士道不覚悟のたぐいはたいてい切腹。金欠なので掠奪金策の類も多い。

日記に残ってる訓練や処罰の類を見てると、今の体育会なみに1日10時間くらい練習して、合間に講義受けて、

ミスしたら平気で体罰みたいな幕府歩兵や奇兵隊のほうがずっと厳しそうに見える。

156日本@名無史さん2015-04-26 00:12:16

>>154>>155

新撰組って些細な事や脱退も許さない感じだけど、幕府歩兵も脱退は許されなかったのかな?

良くもまあ、会津まで行ったりしたよね。

168日本@名無史さん2016-04-23 09:09:03

3倍も兵がいたのに野戦で負けて勇猛果敢だといわれても

169日本@名無史さん2016-04-23 13:48:17

何で佐幕や奥羽越列藩同盟方の武器がショボいんだろうか?

マジで準備してたのか?というレベルだな・・・

庄内藩なんかは、本間家からの献金と軍艦の売却費を使い、スネル商会から大量に武器を購入して装備を整えていたけど。

主力のエンフィールド銃をはじめウィットワース銃や、シャープス、スペンサーなどの後装単発/連発銃を装備してたし、

各戦闘では負けなかったw

170日本@名無史さん2016-04-23 16:38:49

>>168

旧幕軍の3割以上は大坂城にいたし、鳥羽・伏見方面の行軍に参加した会津藩兵は1000人程度だろ

半数が死傷したようだが

>>169

庄内も慶応3年になってからだろ

東日本諸藩は攘夷騒ぎとは無縁だから軍制改革は慶応2年頃に幕府が始めてからそれに倣う形になる

西日本でも佐賀・薩摩は別格として熊本、広島、紀州、長州あたりも慶応2年だと同じようなレベル

179日本@名無史さん2016-04-29 02:30:12

やっぱり実戦経験だな

幕府の歩兵も天狗党討伐の時は優秀な装備でも奇襲受けて壊乱してたのに

2年後の長州征討ではいきなり隊長が狙撃されても崩れず頑張ってる

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